1923年臨時赤羽乳児病院を開設
9月1日に起こった関東大震災の被害を受ける中、済生会医務主管の北里柴三郎は芝病院内にバラック建築を急造し、妊産婦の出産・母子への医療を行なった。
1924年赤羽乳児院が開院
日本で初めての乳児院として芝病院の隣に開院し、芝病院小児科も移設。初代院長は小児科の権威でもある福豊環博士。定員は150人で、総員71人の職員が最大143人の小児科入院患者と乳児の対応に当たった。
被災住民への告知として「診療も入院も無料でできます。育児のご相談にも応じます」という看板が立てられていた。
被災住民への告知として「診療も入院も無料でできます。育児のご相談にも応じます」という看板が立てられていた。
1925年
「芝病院附属乳児院」と改称、病院附属施設となった。(6月)
政府からの補助金交付を受け、独立経営の施設として「済生会赤羽乳児院」と改称。(9月)
当時の日本は乳児死亡率が世界で最も高いといわれていた(全国の死者数の¼が乳幼児)。
1927年
済生会事業を後援する「撫子の会」の支援により「なでしこの会病室」を設置し、毎日平均5人の貧困妊婦を収容。翌年7月には「なでしこの会婦人病室」を設置した。
全国乳幼児愛護デーに参加して「乳幼児健康審査会」を開催し、審査と健康相談を行なった。(以後毎年の同愛護デーに参加)


1930年
「撫子の会」寄付金募集の一つとして国技館で寄付相撲を開催。
1931年
赤羽乳児院と乳児院附属産院を新築。地上3階地下1階のコンクリート造、延床面積987坪の近代的建物。
1932年
乳児院・同附属産院の開院式を挙行。同時に芝病院から産科を附属産院に、小児科を乳児院に移した。
乳児院で「巡回看護班」を組織し、多大な成果を収めた。
1933年
彫刻家の中谷宏運氏から自作の噴水式小児像の寄贈。
彫刻家の中谷宏運氏から自作の噴水式小児像の寄贈。
小山武夫院長の著書「乳児の栄養及栄養障碍」の出版祝賀茶話会を開催。
1934年
彫刻家の古賀勝郎氏から自作の断髪の少女像の寄贈。
1935年
宣伝映画「皇恩の光」制作を企画。
1937年
来朝中のヘレン・ケラーから慰問として花束の寄贈。
1938年
乳児院附属産院が乳児院から独立。


1943年
女学校上級生に対して、育児保健の地域と技術の向上のため実習指導を行なった。
1945年
空襲によって芝病院が焼失したが、乳児院と産院の建物は延焼を逃れた。芝病院各科の診療を一時乳児院内で実施。
1947年
終戦後は捨て子が絶えず、国内初の「赤ちゃんポスト」ともいえる「捨て子台」を設置。しかし、捨て子の増加により収容しきれない状態になり、捨て子台を廃止。捨て子を踏みとどまるよう相談に乗ることを開始。
1948年
「済生会産院附属乳児院」と改称し、産院と乳児院が合併。
中山安院長が乳児院で保育中の乳児の養子縁組や保育相談を開始。「恩賜財団済生会乳児福祉会」が創設。
ベッドで寝る乳児たち
看護婦(看護師)に世話される乳児院の子どもたち
たくさんの洗濯物が干されている様子
ベッドで寝る乳児たち
看護婦(看護師)に世話される乳児院の子どもたち
看護婦(看護師)に世話される乳児院の子どもたち
1949年
児童福祉法最低基準が公布され「児童福祉施設済生会附属乳児院」として許可。
大阪乳児院(当時は中津病院付属乳児院)が開院。
1950年
済生会本部直営から東京都済生会に移管され「東京都済生会中央病院附属乳児院」に改名。
当時の乳児院保育室の収容乳児数は男32・女28の合計60人。34人は親の病気・死亡、犯罪、離婚などによる人所で、他26人は捨て子。
当時の乳児院保育室の収容乳児数は男32・女28の合計60人。34人は親の病気・死亡、犯罪、離婚などによる人所で、他26人は捨て子。
1951年
<栃木>宇都宮乳児院が開院。
<宮城>みやぎ乳児院(当時は宮城県乳児助産院)が開院。
1952年
GHQから玩具の贈り物をもらう。
1953年
初めての吊るし具
(アメリカからの贈り物)。
乳児院に保母(保育士)が初めて就職。
看護婦(看護師)が遊戯を習う。
申し送りをする看護婦。(看護師)
初めての吊るし具(アメリカからの贈り物)。
乳児院に保母(保育士)が初めて就職。
看護婦(看護師)が遊戯を習う。
申し送りをする看護婦。(看護師)
1955年
乳児院での運動会。
1956年
皇后陛下(香淳皇后)と済生会総裁・高松宮殿下がご来院。
戦後の混乱が収まるにつれ乳児院に入る乳児の栄養状態が改善され、医療における抗生剤等の使用とともに死亡者が激減。1956年以降は年間0~1人程度に。
戦後の混乱が収まるにつれ乳児院に入る乳児の栄養状態が改善され、医療における抗生剤等の使用とともに死亡者が激減。1956年以降は年間0~1人程度に。
1957年
入所定員を60人から35人に削減。
1960年
乳児院での散髪の風景
ハリウッド俳優チャールトン・ヘストン慰問
乳児院での散髪の風景
ハリウッド俳優チャールトン・ヘストン慰問
1961年
喜劇俳優カンティンフラス慰問
1965年
寝間着がなく、子どもたちはもらった「さらしの着物」をしばらく着用。
裾がめくれてオムツが丸見えになってしまうことも。
1969年
当時の職員はほとんどが看護婦(看護師)で保母(保育士)は2人のみ。保母の制服も白衣で、その上から柄のエプロンを羽織っていた。


1970年
中央病院改築工事とともに、鉄筋2階建ての建物に建て替え。
その後50年にわたり使用することに。
経済が安定してくるにつれ、乳児院に入所する子どもの主な理由が貧困から、親の病気や子どもへの虐待・育児放棄などに移行
経済が安定してくるにつれ、乳児院に入所する子どもの主な理由が貧困から、親の病気や子どもへの虐待・育児放棄などに移行
1972年
福井県済生会乳児院が開院。
1976年
この年を境に、児童福祉法による乳児院への入所率は全国的に低下。
1979年
〈埼玉〉川口乳児院が開院。





1990年
ハンディキャップを抱える乳児の入所が目立つようになった。
「保育技術のレベルアップと多様化するニーズへの対応」が求められるようになり、スタッフの資質向上を目指し教育体制を構築。




2000年
子どもへの虐待が社会問題化してきたことを受けて、児童虐待防止を目的とした「児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)」が施行。
2001年
乳児院に心理職(心理療法担当職員)が正式配置。
2007年
親が赤ちゃんを育てられない場合に匿名で預けることができる赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」を、熊本県の病院が開設。
2011年
済生会が創立100周年を迎える。
乳児院への心理職の配置が義務化。
2013年
4月に済生会の第6代総裁に就任された秋篠宮殿下が、中央病院と附属乳児院をご訪問。
2018年
乳児院のブランディングを開始。「子どもニーズ子どもファースト」を基本方針に掲げ、一人ひとりの子どもの最善の利益を追求していく姿勢を示す。
乳児院のブランディングを開始。「子どもニーズ子どもファースト」を基本方針に掲げ、一人ひとりの子どもの最善の利益を追求していく姿勢を示す。
2020年
コロナ禍に突入。親子交流、会議、研修のリモート化が進むなど、乳児院の運営が大きく変化。
新築移転に伴い、小規模グループケア体制を導入。
6ユニットに分かれて落ち着いた環境の中で愛着形成を育む家庭的な養育を実践。
新築移転に伴い、小規模グループケア体制を導入。
6ユニットに分かれて落ち着いた環境の中で愛着形成を育む家庭的な養育を実践。
2021年
乳児院電子記録システムが本格稼働し多職種による「支援が見える記録」が実現。
地域の子育て支援事業として「乳幼児ショートステイ」を開始。
2023年
大阪乳児院が新築移転。
みやぎ乳児院が新築移転。
済生会総裁の秋篠宮皇嗣殿下がご来院。
2024年
1月26日、中央病院附属乳児院が創立100周年に。






































